2023年10月13日

#20 親友のようだった祖母(会長)が遺してくれた大切なもの。〜百年企業の後継ぎの答え〜

こんにちは、黒板メーカー 株式会社サカワの4代目社長 坂和寿忠です。

去る7月18日に弊社会長の坂和寿々子が逝去しました。
生前お世話になりました皆様に心から感謝申し上げます。

寿々子は株式会社サカワの3代目社長として、40歳という年齢で社長に就任し、89歳まで約50年という長きにわたり社長を勤め上げました。
夫である2代目坂和眞道を若くして亡くした為、当時女性が社会でキャリアを積むことすら難しい時代に社長に就任し、サカワの歴史を作ってきました。苦労話は本人の口からあまり聞いたことはありませんでしたが、恐らく想像をできないような苦労を経てきたのだと思います。
高度経済成長期の時代に黒板屋として教育環境の整備に従事し、同業者からも慕われ、四国女性社長を代表とするような人物で、
思ったことはハッキリ言うタイプでしたが、人に憎まれず面倒見が良く、周りを大切にし、喧嘩をしても最後は握手をして終わるような清々しい人でした。
私の寿忠の「寿」という字は祖母から頂いており、私の良き理解者であり、一番の味方であり、喜ばせたい人・期待に応えたい人であり、幼少期から私と祖母は“親友”のような間柄でした。

坂和寿々子会長と社長

そんな祖母が先日亡くなりました。
離れ離れに暮らしていたため訃報を聞いたとき、一度全ての物事を考えられなくなり、頭が真っ白にリセットされるような感覚に陥りました。
正直にその時の心境をお話しすると、祖母の元へ向かう道中にぼーっと考えたことは、
「これからもサカワをやっていく意味ってなんだろう?」というものでした。

まずは帰って祖母と対面して、2人でゆっくり会話をして、
そしてもうここで会社を畳むことになるかもしれないという思いが頭を巡ってきました。
それぐらい私にとって祖母の存在は大きく、そして会社経営は坂和家のためにやってきた、という意識が強くありました。

そこから2ヶ月が立ち、ようやく気持ちが整理できましたので、
これからの会社への率直な思い、そして今の自分の気持ちを忘れないように書いておこうと思います。
今回は特にサカワの従業員の皆さんにも見てもらいたいと思いますので一生懸命、書きます。

僕のこれまでの人生をシンプルな言葉で表現すると、“会社の為に生きてきた”、という言葉になります。
物心付いた時から、「黒板屋になる!」と宣言していて、祖母や両親に期待を掛けられてきました。
家業について誇らしく思っていましたし、逆にならないといけないと思っていました。
当然、そう言うと周りが喜ぶことも知っていました。

僕は現在37歳ですが、幼少期や青春時代の自分にとって、家業を継がなければならないという期待がいかに自分にとって重責であったか今振り返っても鮮明に思い出します。

小さい頃はいつも期待に添うように行動していました。大人の目を気にしながら空気を読み行動するような子どもでしたので反抗期らしいものもなく、出来るだけいい子でいたように思います。そうしないとちょっとした悪さなどをすると家族がショックを受け、期待を裏切られかのように悲しむのです。「この子に限ってそんな悪いことをするはずがない。」と。

また自分自身で決められる道というものはなく、生まれた瞬間からゴールが決まっているようなもので、まずそこから大きく脱線することはできません。
文字通り、“敷かれたレール”の上を歩んでいく他ありませんでした。

多くの人は青春を謳歌するべき15歳~22歳で、受験や進路、就職活動など大きな人生のターニングポイントがあります。皆、自分の無限の将来に胸を躍らせ、ワクワクしながら自己責任の元に未来を選択していきます。しかし、後継ぎに自由はなく親の顔色や世間体、将来会社に役立つための選択をしなくてはいけません。
(会社の為に)勉強し、偏差値を上げ、いい高校、大学を出なさいと恐怖のような期待を掛けられ、自分の考えは尊重されず、親のエゴを押し付けられる環境が多くあります。
果たして、親は自分の目を真っすぐ見つめてくれているのか、会社や社会というフィルターを通して見つめているのか、、、
あの時代はそれが当たり前だったし、致し方がなかったのかなと思います。僕自身も家を飛び出してでもやりたい夢があった訳でもなかったのでしょう。
しかしながら、未来への自由な選択肢がない中で、何のために勉学を頑張るか、と言うことについては本当にモチベーションを見失っていました。

そんなとき、僕の心の拠り所は祖母でした。
悪いことをしても怒られることなく、僕の肩を持ち、可能性をいつも信じて見守ってくれていました。あなたは本当に心の優しい子だから。といつも褒めてくれて、
「いつかは会社をやることになるのだから、勉強よりも今しか出会えない友達や経験を作りなさい。出会いや周りを大切にしなさい」と、大きく構えてくれていました。
そんなこともあり、僕はちゃんと勉強もするが、周りともよく遊ぶ、そして人と違う旅など変わった経験もするというような、全部つまみ食いしながら進んでいく変わった青春時代を過ごしていきました。
(すべて中途半端になってしまったとも言えます!)

一方で、会社を継ぐという宿命のもと生まれて来たことは社会人になった時に良い面も多々出てきます。1つはいつも経営者の近くで生活できることです。
サラリーマンでは経験できないような喜びや苦悩を間近で体験することができ、経営に憧れを持ち、
教訓も得られます。会社経営は苦楽があるものだが、人生をかけてやるものだと幼い頃から心に刻まれていきます。
また、会社を継承して繁栄させること自体が人生の自分の使命になるので、何をやるか迷うより、この会社をしっかり成功させるという目標が決まり、20代から仕事への向き合い方が同世代と比較しても圧倒的に真剣です。そのことにより、多くの経験や実践を自ら進んで積むことになります。
逆に頑張って成果を出さないと社内で白い目で見られます。跡取りだから何か楽そうでいいよな、とネガティブな噂をされることは多く、人より何倍も努力し成果を残さなくては認められません。(それで苦しむ後継者の方は多いでしょうね。)
いずれにしても、若いうちに出来る経験は何にも代えがたい自分の財産になります。

そして最も有難いことは、今まで繋いできてくれた歴史や経営資源(人財や事業や設備など)を元に経営者としてスタートができることです。会社を立ち上げたことがないのですが、0から信頼や事業を育てていくことは相当なハードルがあるはずです。特に歴史というものは貴重な武器となり、どんなに会社の規模が大きくなろうが、歴史だけはお金を積んでも増やせるものではありません。コツコツ積み上げ、毎年乗り越えてきた先にある偉大な結果なのです。(本当にご先祖様に、感謝しかありません。)
少し面白い取り組みをしただけでも、老舗企業なのにこんな新しいことやっている!と興味を持ってもらえます。これはベンチャー企業では出来ないことだなとつくづく思います。
歴史は武器となりますので、それも経営資源としてフルで活用することが後継ぎの大きな仕事の一つですね。

このような良い面も苦しい面も多々ありながら、私は2018年11月に32歳でこの会社の代表取締役社長に就任しました。
すべては“この会社を継承し、繁栄させていかなくてはいけない” “ここで途絶えさせる訳にはいかない”という責任感からです。
そして、いつかサカワを日本で最も有名な黒板屋にしたい、という思いで必死にやってきました。

社長に就任してから今まで、様々な問題はありましたが、概ね順調に成長をしてきたと思います。
就任してすぐに100周年のイベントを盛大に開催し、コロナ渦でも会社が止まることはなく、売上利益も毎年目標達成で、社員の平均給与も上げ、有給取得率も大幅に向上し、新旧世代のメンバーも仲が良く、周りは自信を持っていい社員ばかりです。
その間に、事業終了や退職など悲しいこともあり、何度も胃を痛めながらこれまで走ってきましたが、何とか自分なりに会社の後継ぎ経営者としてスタートを切ることが出来ました。

祖母にも事あるごとに会社の状況や起きたことなどを報告していましたが、その度に
「あなたに会社を継いでもらってよかった」と喜ぶ姿をみて、毎回ホッとしていました。
去り際にいつも「これからも会社を頼むからね。家族と従業員を大切にね」と、業績のことだけではなく家族や従業員のことを一番に気に掛けるのがとても祖母らしいなと思います。祖母に会社の成長を見せ続けられたことは、この為にやってきたのだな、僕の大きなモチベーションの源泉でした。

ただし、実際の僕は心中はというと、この4年間で心が満たされたことはありません。いつも焦りと戦いをしているような感覚でした。
絶対に会社を自分が悪い方向に持っていくわけにはいかない、さらに発展させなければいけない。
もし失敗してしまっては、自分の代で大切に紡いできた会社の歴史が切れてしまう。
次は何をやろう、次はあれをやって、次はこれをやらなきゃ会社が止まってしまう、、、と言うような焦りの連続で、思いついたことをどんどんやっていきました。引き継いだものの苦悩でしょうね。

「勝つことばかり知って、負けること知らざれば、害その身に至る」

(勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。)

これは徳川家康の名言の一つだそうですが、祖母が大切にしていた言葉で、生前何度も言い聞かされていた言葉です。
その言葉の通り、僕は新しいことばかりやって、過去に上塗りばかりをしてきたのかもしれません。その結果、自分の弱さに目を背け、新しいことで足りない部分を隠すようなことばかりをしていたと思います。根底にある問題を先送りにして、背伸びばかりをしていては本当に継続して発展していけるような強い会社にはなれません。
自分では感じていませんでしたが、継ぐというプレッシャーを感じ、この4年間でストレスはピークに達していました。会社の業績を発展させることばかりに意識がいってしまい、自分が大切にしなくてはいけないものを見失ってしまったのかもしれません。

そこへきて、祖母の死。
僕にはもう、サカワの成長を無理してアピールする人はいなくなったのです。


そして、冒頭へのシーンに戻ります。
亡くなった祖母の元へ向かう道中に考えていたことは、

なんで今まで一生懸命、会社をやってきたんだっけ?もういいのかな。
社長になってからは4年だけど、自分は37年間、後継ぎという呪縛に苛まれてきた。
もう限界かもしれない。祖母に元気に会社をやっている姿を見せれてよかった、と。

大きなモチベーションを失い、一度リセットされた自分は、道中ずっと頭でグルグルとそんなことを考えていました。

そこから通夜、告別式、火葬の間、祖母とずっと心で会話をしていました。
「どんな気持ちでここまで会社をやってきたの?」
「社長になってから、何が一番大変だった?」
「会社をやってきて良かったと思う?」
「幸せだった?」

彼女はとても安らかな顔をして、どんな質問にも
「とても良かったよ。幸せだった。」
というまっすぐな言葉が返してくれました。今までの集大成のようなとても素晴らしい葬儀でした。

ひ孫を含めて12人の家族が祖母を囲み、心から感謝と敬意を持って送り出している風景、
従業員たちが偲んで会社でお別れをしてくれたり、お花やメッセージをくれたりする光景を見て、
祖母が守ってきた偉大なものにようやく気づきました。

会社そのものを存続させるのが目的ではない、
会社を通して、家族と従業員という大切な仲間を幸せにしていくこと

「次はあなたの番だよ」と、バトンを渡されたような気持ちになりました。

このことに気づいた時、自分の心の底から高まる気持ちがマグマのように湧き出て出てくるのを感じました。
自分はもう1人ではない、守るべき仲間、守ってくれる仲間がいる。
この人たちの為に生きよう、その為にいい会社を作ろう

そう決心しました。今までいつも何かのせいにして逃げてきたのかもしれません。

僕自身に“敷かれていたレール”は終わりました。
ここからは仲間と一緒に新たなレールを作り進んでいきたいと思います。

決して一人ではやっていけません。未熟な社長ですが、どうぞこれからも力を貸してください。
従業員の皆さま、ご関係者の皆様、今後とも何卒宜しくお願いします。





秋晴れで清々しい今日この頃。
自宅の仕事机には、僕が卒業旅行のお土産で買ってきた派手めな帽子を被って笑っている祖母の写真が飾ってあります。

そして、言うのです。
「みんなと仲良く、一緒にいい会社を作りなさい。」と、

「あとは任せておいて。」
と言って、今日も坂和 寿忠は元気に会社に向かいます。



読んで頂き、有難うございました。                                        

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この記事を書いたひと

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坂和 寿忠

株式会社サカワ4代目社長の坂和寿忠(トシタダ)です。愛媛県出身、1986年生まれ。大正時代に黒板製造業でスタートした弊社は創業100年を超え、教育分野という土俵はそのままに、今ではアプリを制作し、学校用プロジェクター「ワイード」を全国展開しています(今もグングン導入台数増加中)。 “日本一面白い黒板屋さんになる“ために面白いアイデアや仲間をいつも探しています。「こんな物を一緒に作れないですか?」「こういうこと出来ないですか?」なんていう面白いお話があればいつでも大歓迎です!FacebookやTwitterからメッセージお待ちしております。では、また!

♪サカワのテーマソング「時代を超えて」